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 11月1日八幡人権教育推進協議会は豊後大野市でフィールドワーク形式の研修を行いました。
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 豊後大野市では、被差別部落は「むら」と呼ばれていました。

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▲フィールドワーク講師の黒野徹氏

 フィールドワークでは、主に神社、墓石、児童館等を回り、部落差別とそれに対する「むら」人の反抗の姿などを見ることができました。

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 ▲明尊寺では「むら」のほとんどがの家が平人と一緒に門徒となっている

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   ▲写真奥の明尊寺の大太鼓は100年に一度張り替えられるが、最近の張替えには玖珠町の山本さんが張替に携わっている。  

 豊後大野市の部落差別の歴史は、それ以前は無く、18世紀の中頃(江戸時代中期)に「むら」ができたとされています。

 「むら」人になった人は、石垣原の合戦で敗れて蟄居させられた武士、かくれキリシタン、神社の清掃をする傍らときには伝染病の介護をしてきた下級の神人(じんにん)、芸能にたずさわる人、盗賊用心のため肥後から招いた番人、百姓一揆の首謀者の子孫、よそから連れてこられた革細工人などです。それらの人は普段は農業で生活していたようです。

 18世紀末から19世紀初めになると、岡藩は、この「むら」人に死牛馬の処理や、刑場・牢屋の仕事をさせるようになったようで、このことがひどい差別を生むようになりました。

 岡藩の財政や武士の生活が苦しくなると、平人以上の厳しい年貢の取り立て、武士へははいつくばって礼をするなどの礼儀の締め付け、平人と違いが一目で分かるよう着物に黄色の襟を付けるよう、また着物は浅黄染、渋染めに限る等を「むら」人に課しました。

 それに対し、対抗するために農民よりも大きい墓石の建立や、子どもの墓を豪華にしたり、平人が行う神社の祭りには参加できないことから自分たちの氏神信仰の拠点として「天満社」を造営したりしています。

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 ▲地区内にある神社の祭りには「むら」の人々は参加できないことから、「むら」の住人の強い思いから天満社が造営された

 幕末になるにつれての武家の困窮や、農民の武士への不満が江戸時代の士農工商の身分制度を強化することで、作られた身分制度によって犠牲となった被差別部落の住人である「むら」人への差別の顕著化につながったようです。