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 12月1日コロナ禍で自粛ムードが続いている中、八幡コミュニティの久しぶりの大きな行事として、「八幡の歴史を学ぶ」講演会が開催されました。主催は教育文化部会(長柄寿子部会長)と地域づくり部会(河島廣太郎部会長)の共催で行われました。
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  講師は、玖珠町役場教育委員会の文化財担当の野口典良さんです。講演内容は「中世から近世の八幡」と題して、鎌倉時代から江戸時代にかけての史実に基づいた八幡の歴史についてのお話でした。

 先ず、中世と近世の区分は、中央集権制でない武家による社会支配の時期である鎌倉時代から室町時代までを中世、武家による中央集権制の織田信長、豊臣秀吉の安土桃山時代から江戸幕府の幕末までとされています。なお、平安時代以前は古代、明治以降は近代とされています。

 中世の八幡は「豊後風土記」や「豊後国史」に記されています。以下講師のお話の主な内容は次の通りです。

 

 八幡地区は「古後郷」といい、「古後氏」が治めていた。

 古後氏は平安時代中期の平安京で官職にあったともされる清原正高を始祖とする清原一族の一人。

 古後氏の拠点は、古後城で、その場所は「たてんでい(館殿台)」、「たてどん」、「古後どん」とも呼ばれている。現在の綾垣の小城自治区から元畑に抜ける旧道の左側の高台にあった。

 その古後一族が、八幡地区内の、太田、綾垣、志津里、平井、長小野、原口などに広がり、そこの地名を姓として名乗るようになった。今もその古文書が残っている。

 戦国時代の薩摩藩が豊後の国を攻めてきた豊薩戦争では、古後氏は角牟礼城に籠城し薩摩郡と長い戦いの末に勝利するが、古後氏はその勝利に大きく功績。

 近世の八幡は、森藩の領地となる。

 全国を測量した伊能忠敬が江戸時代後期に直接来て、測量した図が残っている。古文書にも、森の城下町と、鳥屋の養専寺にも泊まったとされている。

 また、森藩8代藩主の久留島通嘉(みちひろ)が、文化6年2月5日に、お忍びで耶馬渓の羅漢寺に出かけている。鳥屋から山移に出て羅漢寺に向かっているが、向こうの指月庵でそばを食べ、帰りに古羅漢、青の洞門を観たりしている。

 天保元年10月1日には、古後地区の竃ヶ岩(かまどがいわ)にも遊山に訪れている。

 藩主通嘉は、家臣の江戸川龍門に命じ、藩内の古跡名勝をまとめさせている。その中の名勝として八幡地区では2つの記録が絵と共に残っている。ひとつは、玉取毘沙門で、坂の上の池近くにあるようです。もうひとつは、竃ヶ岩。

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 講師の野口さんは最後に、山下岩戸楽と古後の大浦楽について由来を話してくれました。

 八幡の歴史の学習会の参加者からは皆さん好評で、「八幡の歴史が良く分かった。」「伊能忠敬が八幡に来たのには感動した。」「次回も期待したい。」「現地も直接見てみたい。」などの声が上がっていました。